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トップ  >  会津藩と新選組  >  【旧幕府側討伐の動き】1867
  • 慶喜の計算
    大政奉還をした十五代将軍徳川慶喜でしたが、おそらく彼は、自ら将軍の座を降りたいということで、ある程度の禄を有し、新政府においても発言力を持つ大名として存続できると考えていたと思われます。しかし、新体制を話し合う小御所で、慶喜の納地辞官が決定し、彼の目論みは崩れてしまいました。このことは、幕藩体制のもとでその中枢に位置してた幕臣たちの立場も大きく揺らいでしまうことを意味していました。
     
    諸藩の選択
    徳川幕藩体制の突然の崩壊は、幕府に従ってきた各藩にも大きな影響を与えました。会津・桑名の佐幕側と、長州・薩摩の討幕側の間でさまざまな思惑が行き交い、御三家という将軍に近い藩の中でさえ、分裂がおきたところもあります。東北地方は奥羽越列藩同盟を結成しますが、間もなく瓦解してしまったのも難しい時代の舵取りを任された、藩主の厳しい選択と言えます。
  • 勅書の存在
    徳川慶喜が大政奉還をするのに前後して、写真のような勅書が出されていました。内容は、薩摩と長州の両藩主に対して、天皇親政の国家体制のもとで、その中枢を担うこと、そして会津藩主松平容保(京都守護職)と桑名藩主松平定敬(京都所司代)の両名を名指しで、「幕賊」と決めつけ、これを捕らえよと命じるものでした。
    これらは、本来の天皇が下す勅書の様式を有していないことから、岩倉具視ら討幕派の公家たちが偽造したのではないかと思われますが、当時は本物と思われており、これによって会津・桑名の両藩は「賊軍」となってしまったのです。
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