- 鳥羽・伏見の戦い
小御所会議での決定は、徳川慶喜のみならず、会津藩などにとっても厳しい内容でした。旧幕府勢は直接天皇に嘆願しようと、京都に向けて出発しましたが、京都に入ること自体拒否されてしまいます。そこで武力による圧力をかけようと京都南部の鳥羽・伏見まで兵を進めました。しばらくにらみ合いが続いていましたが、どこからか聞こえてきた大砲の音がきっかけで両軍が衝突、戦闘が展開されました。しかし旧幕府側が不利のうちに徳川慶喜は、容保らを連れて海路江戸へ向かったため、幕府軍も兵を引き上げざるを得ませんでした。
この資料は、明治30年代に発行された印刷物だが、新政府側の情報に基づいて描かれているため、会津藩はあまり登場しない。
- 戦火の東上と近藤勇の捕縛
慶喜は江戸に着くと自ら恭順を表明し、側近として容保にも国許に帰って謹慎することが命じられました。江戸の街を戦火から救うため、旧幕府の勝海舟と新政府側の西郷隆盛とが会談し、江戸城の無血開城が実現しました。新選組は、幕府軍の撤退とともに江戸へ向かい、甲陽鎮撫隊を名乗って甲府で戦いますが追い詰められ、流山で近藤は捕縛され、処刑されてしまいます。副長の土方歳三は、近藤の形見を持って会津へ向かいました。