- 奥羽越列藩同盟
戦火が江戸を経て北上するころ、東北諸藩の多くは新政府軍の標的とされた会津と庄内を支援する意向を表明し、四月下旬に白石にて「奥羽越列藩同盟」が成立しました。仙台藩と米沢藩が中心となり、表向きは会津と庄内への攻撃をやめさせることにありましたが、水面下では皇族輪王寺宮をトップに据えた同盟藩による独立国家構想もあったのです。時を経るにつれて同盟からの脱退が相次ぎ、八月には米沢・仙台も恭順したため、会津と庄内は「朝敵」として攻撃を総攻撃を受けることになります。
- 会津藩とその援軍
会津での戦いが徐々に現実味を帯びるころ、旧幕臣たちも会津へ集結しはじめました。新選組はもちろんですが、美濃郡上からの凌霜隊もかけつけました。しかし各藩主は、幕府への忠誠は感じながらも、時代の推移を判断すると難しい選択に迫られます。郡上藩おいては、凌霜隊が会津から帰ると、藩がすでに新政府寄りになっており、こうした藩の意向に背いたとして冷たい扱いを受けることになった例もありました。
斎藤一など、会津新選組が拠点とした如来堂。会津若松市神指町に現存し、碑が建てられている。
- 戦闘・籠城、そして降伏
旧幕府軍と新政府軍との戦いは、兵力の差が明らかでした。劣勢のまま抵抗を続けますが、新政府側が恐れていたのが、体験したことのない「東北の冬」の到来でした。会津戦争を指揮していた板垣退助もこれを懸念し、冬になる前の決着をと急ぎました。こうして難攻不落の鶴ヶ城も、新政府軍が突入してからちょうど一ヶ月たった九月二十二日、松平容保は降伏することを決意し、開城しました。投降した会津側の人は、およそ五千人だったという記録もあります。降伏式の時、地面に敷かれた緋毛氈を会津藩では「泣血氈」と呼んで、藩士たちが少しずつ切れ端を懐にし、この悔しさは終生忘れないと誓いあいました。
【戊辰戦争勃発】1868 |
会津藩と新選組 |
【箱館戦争から近代国家へ】1869〜 |