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トップ  >  会津藩と新選組  >  【箱館戦争から近代国家へ】1869〜
  • 開城後の鶴ヶ城(明治5年ごろ撮影)最後のサムライ
    会津藩が開城した翌日、庄内藩も降伏しました。あと残っているのは、海路北海道へ渡った榎本武揚が率いる人々でした。土方歳三も合流し、翌春、上陸してきた新政府軍と衝突。激戦の中で5月11日、戊辰戦争の最初から最後まで戦い続けた土方は敵弾に倒れました。一週間後、榎本も投降し、戊辰戦争の幕は下ろされました。
     
  • 戦いに敗れた人々は・・・
    会津藩の必死の抵抗は、新政府にとって大きな脅威に思えたのか、その罰は重いものでした。藩主親子は江戸で謹慎。家老職にあった萱野権兵衛が切腹。さらに藩は陸奥国斗南藩へ国替えとなりました。藩士たちは、謹慎地を転々とした後、分かれて斗南へ渡りました。その後版籍奉還により、会津へ戻る者、斗南へ留まる者、さらに北へと北海道へ渡る者、あるいは東京へ出る者と、さまざまな選択がされました。

    その後の斎藤一

    戊辰戦争後の『会津藩謹慎者名簿』の中で「斎藤一事(こと)」と注釈が付けられた一瀬傳八会津新選組として奮戦した斎藤は死亡説も流れましたが、実は会津藩士として他の藩士とともに謹慎生活を送り、同様に斗南へと渡りました。
    右の写真は謹慎者の名簿ですが、名前は一瀬傳八となっています。さすがに斎藤の名前を名乗り続けるのは具合が悪かったのか、あるいは新たに会津藩士として暮らすためだったのでしょうか。それまでもいろいろな名前を名乗っていましたから特に不思議ではありませんが、名簿にはわざわざ「斎藤一事(こと)」と注釈が付けられています。
    やがて、会津藩士の娘の時尾を妻に迎えます。結婚に際しては、松平容保が媒酌人を務め、山川浩、佐川官兵衛など限られた旧藩士のみが立ち会ったそうです。このときから今度は「藤田五郎」と名前を改め、東京へと出発しました。以後、改名はせず「藤田五郎」のままで亡くなりました。
    会津若松市の七日町にある阿弥陀寺には「藤田五郎」 の墓があり、妻の時尾らとともに眠っています。

    七日町にある阿弥陀寺 藤田家の墓
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