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その後の斎藤一
会津新選組として奮戦した斎藤は死亡説も流れましたが、実は会津藩士として他の藩士とともに謹慎生活を送り、同様に斗南へと渡りました。 右の写真は謹慎者の名簿ですが、名前は一瀬傳八となっています。さすがに斎藤の名前を名乗り続けるのは具合が悪かったのか、あるいは新たに会津藩士として暮らすためだったのでしょうか。それまでもいろいろな名前を名乗っていましたから特に不思議ではありませんが、名簿にはわざわざ「斎藤一事(こと)」と注釈が付けられています。 やがて、会津藩士の娘の時尾を妻に迎えます。結婚に際しては、松平容保が媒酌人を務め、山川浩、佐川官兵衛など限られた旧藩士のみが立ち会ったそうです。このときから今度は「藤田五郎」と名前を改め、東京へと出発しました。以後、改名はせず「藤田五郎」のままで亡くなりました。 会津若松市の七日町にある阿弥陀寺には「藤田五郎」 の墓があり、妻の時尾らとともに眠っています。
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