- 蝦夷地警備
蝦夷地(北海道)は、当時は大部分が幕府の直轄領となっていましたが、その地形の全容さえ、明確にはなっていませんでした。そこへロシア船が出没するようになると、幕府は自国領であることを主張するため、警備のための派兵を命じました。全島の東半分を仙台藩、西半分が会津藩というものでした。会津では、改革により藩財政がわずかに上向きになったもののまだまだ厳しい状況が続いていました。しかし、このような幕命に対しては、藩祖保科正之が定めた『家訓』により、絶対服従との姿勢が保たれ、さらには泰平の世が続いていながらも、常に訓練を怠らなかったことによる強力な軍事力を持っていましたので、蝦夷地警備に成果を挙げました。しかし、極寒の地での勤務や往復の船旅での遭難などで落命するものも多く、さらに続いた江戸湾警備もあわせて、藩としての兵力と財力を相当圧迫するものとなりました。
- 江戸湾警備
蝦夷地警備を終えると、今度は江戸湾警備を命じられました。江戸湾は、幕府への玄関口として、外国船の出没も多く、警備にも重点が置かれました。ここには会津と、関東の川越・忍の三藩があたりました。会津藩は台場を築いたり、房総側の富津や、浦賀半島の走水(横須賀)付近に陣屋を置きました。
【揺らぐ徳川幕藩体制】1800〜1840ごろ |
会津藩と新選組 |
【国内の動揺】1854〜1862 |