- 松平容保 京都守護職拝命
天皇をめぐる動きは激しさを増し、天皇の住む京都では暗殺が多発するなど、治安が悪化していました。そこで、それまでの京都所司代の上位職として京都守護職が設けられ、会津藩主松平容保に就任が要請されました。当初は固辞していましたが、幕府への忠誠を示す「家訓」を楯に迫られ、やむなく引き受けることとなりました。当時、京都所司代を務めていたのは、容保の実弟で桑名藩主の松平定敬でした。
- 会津藩 京都入り
文久2年10月、松平容保は約1000名の藩士を従えて京都入りしました。当時の京都の人々には、会津という言葉への認識が乏しく、「いなかざむらい」とか「かいづとはどこだ?」と噂したそうです。
- 京都での拠点
京都入りした会津藩士たちは、とりあえず黒谷の金戒光明寺に陣を構えました。やがて、御所のすぐ脇の広大な一角に、居住していた人たちをすべて立ち退かせて京都守護職屋敷を建設しました。現在の京都府庁は京都守護職屋敷の跡地に建てられたもので、現在でも府庁内の庭園の一隅に碑がひっそりと建っています。
【新選組誕生】1863
- 募集
幕府を守るためには、多発するテロへも警戒するために、多くの兵力を必要としていました。
しかし、当時武士は、名字帯刀が許される特権階級の身分であり、基本的には藩主に召抱えられる藩士か、何らかの理由で職を解かれた浪人でした。
幕府では、藩士以外でも強い者を集めようとしました。
最上出身の清河八郎が人集めを任され、近藤勇らが誘いに応じました。
ここで清河は、近藤らに本当は幕府転覆を狙っていると打ち明けられましたが、近藤たちは当初の呼びかけの通り、幕府を守ることを貫く意志を伝え、京都へと向かいました。
メンバー集めも命がけ!?
江戸時代は、自分の生まれた土地を離れることは、旅行であってもなかなか簡単にはいきませんでした。
地元の役人に「○○という人物が通ります」という証明書を発行してもらわなければならなかったのです。
逆に見知らぬ人が付近をうろついていたりしたら、役人がつかまえてしまいます。
まして交通機関も発展していませんでしたから、新選組の隊士を日本中から集めるのは、大変だったようです。
しかし、幕府を倒そうとする動きに強く反発する人々が即座に呼応して、自分からすすんで困難な役目を受け持つために京都へ集合しました。 - 守護職の支配下に
京都での新選組は、守護職の支配下に置かれ、名目的には会津藩主の松平容保から給与を受け取っていました。
そして、実際の活動は、会津藩の見回り組の指揮下で、主に南部の郊外を領域としていました。
【国内の動揺】1854〜1862 |
会津藩と新選組 |
【動乱の京都】1863〜1864 |