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トップ  >  会津藩と新選組  >  【新選組の活躍】1864〜1867
  • 働きと評価
    新選組は、京都守護職の支配下にありましたが、実態は自分たちで規律を作り、これを遵守することで、出身も異なる隊士たちの統率がとられていました。
    当初は「壬生の暴れん坊」としか見られなかったものの、次第に京都の治安が回復していくに連れ、その働きが評価されるようになりました。
    局長の近藤勇においては、藩主・幕臣たちの会議に同席し意見を述べるなど、当時としては破格の出世を果たし、単なる腕自慢の集まりではないことを示すことになりました。
     
  • 内部事情
    不安な世情を反映し、当初は組織内部にも様々な波風が立っていました。
    しかし、近藤と並んで局長に位置していた芹沢鴨が、目に余る行為を繰り返したとして、自分たちでこれを討ちました。
    さらに、内通していたとして伊東甲子太郎も暗殺され、近藤・土方を中心とする体制は固まり、その意に沿わないものは斬るという暗黙の了解をもって、堅固な組織になったと考えられます。
    芹沢鴨の墓(壬生寺) 伊東甲子太郎殉難の碑(本光寺)
    芹沢は粗暴な振る舞いが多く、局長として不適格な人物として、近藤らの判断で殺害された。
    伊東は、内部分裂を企てようとしたとして暗殺された。斎藤一が実行犯だったとの記録も・・・。
      
    会津藩と新選組のビミョーな関係
    新選組が会津藩預かりということで、他藩の武士なども直接手出しをしにくい状況にあり、一般市民へ迷惑をかけるようなこともありました。
    あまりに目に余るようなときには会津藩主へ直接言い、これを受けて容保が近藤勇などに命令することもありました。
    芹沢鴨の処罰も、商人からの嘆願もあって行われたようです。
    ただ、細かなことまで会津藩が指示を出すわけではありませんし、「池田屋事件」の時などは新選組が会津藩などを制して自分たちだけで手柄としてしまうこともあり、会津藩としても手を焼いていた一面もあったようです。
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